音MADとの慣れ初めの昔話

今日のTLは修造の高画質素材発掘で盛り上がっているが、それを尻目に私は自分語りをしてみようと思う。

というのも、昔のブログを漁っていたらニコニコ動画に初めて投稿した動画を発掘して懐かしくなったのだ。

 

まず私が初めて見た音MADはこちら。

 

スマブラキッズだった私にオタクの友達Mが教えてくれた動画である。

当時はyoutubeで視聴したのだが、見つからなかったので元動画の方を掲載。

海でドナルドが複数人の男達と戦うシーンは今でも色褪せない。というか元々大分色褪せてる)。なんなんだこの映像は。

 

これを機にグルメレースやドナルドの動画を経由して色々な曲や素材を知るとか、

友人MがローゼンメイデンのOPを聴いて私の自宅で踊り始めるヤバい小学生だったとか色々な話があるのだが、これはまたの機会ということで。

 

そんなこんなで音MADという新しい文化が私の中に定着していく訳なのだが、2009年11月頃に二回目の転機を迎える。

私は小学生の頃からポケモンWi-Fi通信をする相手を探すためにネット掲示板を使っていたのだが、そこでよく話をしていた友人が音MAD作者(広義)となったのだ。

その影響で私も音MADを作り始めた。 

…ここの過程が少し面白いのだが、文章で上手く説明出来る気がしないので大雑把な流れを紹介しようと思う。

 

①友人R(※以下R)がインターネットラジオを始める。その影響でスレッド住民の中でラジオ配信ブームが訪れる(友人Lや友人P等がこの流れに続いていた。この二人の名前は今後一切登場しない)。

②Rが実況プレイヤーとしてデビュー。ここで動画編集ソフト(WMM)の使い方を覚える。

③Rがスレッドの住民達を素材とした音MADを複数投稿し始める。曲は全て「マイムマイム」を使っていた。

④私「Rが作れるなら俺も作れるだろ!俺も音MADを作ろう!」

 

つまりこういうことである。大雑把だけど分かりやすいだろう。

私の投稿動画の中で真っ先に「ナカヤマタ」や「音MAD作者フレンド(仮)」辺りが浮かぶ人は鋭いと思う。私のルーツはそもそも内輪ネタMADにあったのだ。あと③のところを今振り返ると、当時の状況は今でいうところのRED ZONE界隈に近かったのかなと思う。楽しかったなぁ。

 

そんな状況から始まった音MAD制作だったので、初制作の動画には特に工夫も無く、投降サイトもRが使っていたzoomieを思考停止で選んだ。

このサイト名に覚えがある人はピンと来たかも知れないが、つまり私の初投稿動画はインターネット上に残っていないのである。

ただ、投稿日と動画タイトルはブログから発掘することが出来た。

 

①「スネ夫氷帝応援団に応援される時に流れている曲

②「ロバートの後ろじゃない方がうぁぁぁあする時に流れている曲

投稿日:両方とも2009年11月08日

 

…誰も一本とは言っていない。なんと同じ日に二本の動画を投稿していたらしい。

どちらも動画データが残っていないのだが、①は「童貞コール」が繰り返される動画で、②はロバートの「うぁぁぁぁ」が繰り返される動画だったと思う。

 

ニコニコ動画への初投稿は翌日2009年11月09日に行われたらしい。地味にイーノックの日である。

 

またもや「スネ夫が自慢話をするときに流れている曲」である。この年流行ったもんなぁ~。

再生数141の動画に5件ものコメントが来るなんて当時のニコニコは暖かったんだなぁと実感。

 

翌日の2009年11月10日に投稿した動画が少し面白かったので、最後に紹介しようと思う。

 

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この動画で素材として使われていたのは松岡修造素材として有名なあのロバートなのだが、恐らく当時の自分は「この叫んでいる男は芸人のロバートだ!」と勘違いしていたらしい。言われてみると叫んでいる男は秋山に、後ろで微笑む男は馬場に似ている気はする。

 

閑話休題(入間人間表現)。

 

正直無限に膨らませられる話題な気がするのだが、キリが無くなってしまうのでここで中断。

友人Rは実況者として活動し続けて今ではニコバーでイベントを開くような人間になったのに、自分は音MAD作り続けてもロクに実績作れてないな~とか考えてしまったが、これも単独で記事に出来そうなぐらいには膨らませられそうなのでまた今度。

 

というわけで、音MADとの慣れ初めの話でした。長い自分語りに付き合って頂きありがとうございます。

この記事のウケ次第ではまたこういう系の記事を書いてみようと思います。